ちっこいはなし

たのしいせいかつ

食らうクラウド

人格が矛盾する。一人でいると全部が好きで、誰だって愛したい。その誰かに会うと疲れてしまう。肺が硬い。面倒くさいから眠っていたいけど腹が減るからそれも面倒くさい。
腹が減っても食欲は別にないけど、空腹感ってある種の快楽だ。気持ち良くてくらくらする。みんなそうなの?
たくさんの人のことを知りたい。どんな考え方してる?それはどのようにして養われたの?何が好きで何が嫌い?どうして?喜劇と悲劇ならどっちが好き?今まで生きてきて一番感動したことは?
「何かをやりたい」で行動したことがわりかし少ないと気づいた。原動力というか行動理念が「何かを避けたい」ばかりで嫌になる。死にたくないから生きているだけで、なのに策のない希望ばかり増えてゆく。創作をやるのは「やりたいから」のはずなのに、雇用されて労働するのを避けたいだけに思えてきて何も分からなくなる。私の感情は私のものじゃない。
気がつけば人格というものは外側からの力で形成されていて、それをあたかも生得的なものであるかのように振り回す。これ恐ろしくない?陰謀論じゃなくて一般論。そこから抜け出したとき初めて「自我」を得るというのなら、私たちはまだ発達途上だ。孵化前夜。
正しくならなきゃいけないから私たちは哲学が大好きだ。でも何らかの斥力が慣性になって私をここに押し留めてしまう。モラトリアムの出口。無慈悲な横スクロール。脅迫。子どもでいたいのは大人になって責任を負いたくないからだ。
杜子春の気持ちが分かるような気がする。

反透明/魚眼レンズ

友達がいないと気楽でいいけど、何かと不便なのでプラマイゼロだ。高校に入ってから新しい友達は作れていない。
ところで皆さん、義務教育時代に友達は作れましたか?こんな私でも友達の一人や二人ぐらいはいます。そんでここから本題に入るんだが、友達の家って知ってますか?
私は知らない。友達の住所、家族構成、誕生日、何も。だって私は、私用に用意されたその子の人格以外に興味がないからだ。多重人格とまではいかなくとも、誰だって多少は付き合う人によって人格が切り替わるはずだ。当然私も例外ではなく、話す相手によって声の高さまで変わってしまう。
話が逸れたが、つまり私は他人への興味が希薄だ。クラスメイトの顔なんか覚えられないし、俳優やアイドルの顔など尚更分からないし見分けもつかない。芸人は興味があるから分かる。まるで自分に関わらないものは存在しないかのように、意識に入らないのだ。私の景色は私を中心として、極度に歪曲するブラックホールだ。
この性質で苦労したりはする。何しろ軽音楽部で同じバンドに所属する女子メンバーの顔すらろくに覚えていないので、話しかけられても空返事するしかない。一人だけ、髪の裾を染めている子だけ判別できるが、染めるのを止めたらその子も怪しい。(男子より女子の方がなぜか判別が難しい。バンドの男子メンバーは遠目からでも分かる。不思議なものだ。)これは比喩だが、私から見た女子には顔がない。およそ個性といったものが見当たらないのだ。私が描いた「女子」のステレオタイプから少しも逸脱しない。だから興味など抱けない。「女子」のイデアにしか好奇心を向けられない。
近くて見えぬは睫とはよく言ったもので、私は私を取り巻く外界にもさほど興味はない。自分で言うのも気恥ずかしいが勇気を出して告白すると、私は少々思索に奥深くまで潜ってしまうきらいがあるのだ。自分を裏返すみたいに中へ中へ入ろうとするから外が見えない。私には目が二つしかないから。だから哲学者の気分だ。けれど人付き合いや世渡りが上手くない内は、私はまだまだ似非哲学者なのだろう。
哲学モードの私、謂わば「私と付き合う人格の私」は生産性のない会話というものが大嫌いだから、文章によって自己を陶冶するしかない。私の独り言が文章チックなのもきっとそのせいだ。私のブログは脳内の独り言をアウトプットしているのだが、独り言は全部断片なので繋ぎ合わせると整合性がない。話の飛躍もこの性質に依るものだ。端切れ入れをひっくり返しすぎてとっ散らかってきたので今日はここまで。

普請

「あばら屋」の追伸のようなもの


F氏の諸々を受け入れる余裕がようやくできてきた。彼の名前を見かけても、もう動悸は緩やかだ。やっと悲嘆せずに彼を想えるのだ。これ程喜ばしいことが他にあるだろうか。
だから私は言う。
「あなたのそちらでの安穏が何物にも脅かされませんよう祈ります。またいつか、地上ではないどこかで、あなたの音を聴かせてください。それまではあなたが残した音をなぞって待っています。」
もう大丈夫。大丈夫。だから今はもう一つ祈る。私の昨日までのとりとめない負の電荷がF氏のところまで流れないように。他でもない私自身が彼の眠りを妨げないように。

あばら屋

まず始めに、今日の文章は決して明るい話ではないことを断っておこうと思う。湿っぽくて暗い話だ。だが救いはある。


とある訃報が入った。
私はその人のことを知ったばかりだった。具体的に言えば、一ヶ月前にはその人のことを知らなかった。それにその人(まどろっこしいので、以降は仮に「F氏」と呼ぶことにする)についてそこまで多く知らない、今でもそうだ。なのに私はF氏の訃報に触れて、大変なショックを受けた。
私はあの時、生まれて初めて「血の気が引く」を経験した。目にした知らせが脳に達して、瞬時に脊髄を駆け巡り、電光石火で指先に伝わったらしかった。平日のゴールデンタイムに、私は茫然自失でスマートフォンの画面から目を背けた。これ以上は少しもその文字列を認識したくなかったからだ。
死因は以前より患っていた病だったそうだ。いつ弾けるか分からない爆弾を体に埋められていたのだ。予告されていた終わりだった。それならきっと、そこまで悲劇ではないのだろう。頭では分かっている。

いつの間にF氏は私の中で、こんなにウェイトを占めていたのか。彼のことを想うたび、胸が冷える。
知らないうちに私は、心の中に彼の椅子を作っていたのだろう。しかし彼は席を立った。胸の冷えは、座面から彼の体温が失われてゆくことなのだ。今は「彼がいた」という証の空白だけが残っている。もはや欠落だけが彼になってしまった。
これほど衝撃を受けておきながら、私はその晩泣けなかった。それもそのはずだ、私はとてもじゃないが、まだ彼の死を受け入れられなかった。泣けば認めることになると思った。

翌朝、新聞の訃報欄にF氏の名前はなかった。起きて真っ先に新聞を開いた私は、それを見て少し安心した。受け入れ難い事実をまざまざと見せつけられるのを免れたからだ。気休めにしかならないし、根本的に解決することなど永遠にないが、ともかく朝っぱらから泣くことは防ぐことができた。
その日はネットを見るのが億劫だった。いつ、どんなきっかけで彼の訃報を載せたネットニュースに触れてしまうか分からなかったから。なるべく忘れていようと努めても、ぼんやりしているとふと思い出してしまう。
心が形を持ち代謝を行う一器官だとしたら、私のそれは他人より柔らかくて傷みやすいのだろう。知って一ヶ月足らずのよく知らない人の死に、ここまで傷ついてしまうなんて。私はかねてより泣きたくないと思っていた。涙が乾くと肌がかぴかぴして気持ち悪いし、鼻水が出ると息が苦しいから。それでやむなく口呼吸したら喉がかさついて痛い。
でも私は二日目、結局泣いた。
布団に寝転びながら流した涙は、頬を経由して耳の縁に滴った。その感覚が不快だった。F氏の死を受け入れている自分も不快だった。昨日の防御反応と抵抗が無駄になっていたから。そう思うと急に馬鹿馬鹿しく思えた。けれど涙はひとしきり流れた。

そういえば何年か前も同じ感覚に陥りかけた。あれは夢だから良かったけど。あの時もSNSを見るのが恐ろしかった。その時死んだ(という夢を見た)人は長い間好感を持って応援していた人だったから、正夢だったらしばらく立ち直れそうになかった。(当時はあの出来事の印象は「夢と現実の境目がだんだん曖昧になってきている自分への恐れ」の方が強かったのだが。)

まだ彼の死を受け止めきれそうにない。でも人はそうやって生きてきた。私だって気づけば祖父の死を乗り越えていた。うまくスイッチを切り替えて心を麻痺させないと、私は学生をやっていけない。なのに今は「もっと早く彼のことを知りたかった」という後悔でいっぱいだ。

一刻も早く前を向くしかない。この文脈をしみったれた悲劇にしてはいけないからだ。笑え。笑え。笑え。空元気だとしても。心の風穴に冬の乾いた冷風が吹き荒ぶとも。

人間愛好家

生きていることが幸せだ。そう表明するのが気恥ずかしかったし、つい最近までは心からそう思えなかった。でも今なら臆面もなく言えるのだ。
私が媒体はどうあれ表現をやるときには、いつだって通奏低音として人間賛歌を忍ばせたいと思っている。誰かに届けるためではなく、自分が自分を誇れるように、まっすぐ立っていたいと願う。卑屈でも傲慢でもなく、ただあるがままの自己を等身大に愛していたい。
失敗ばかりの毎日だ。手をこまねいている内に恥はどんどん増えてゆくし、対策を講じることなく痛みを忘れてゆく。現在の快楽のために未来の幸福を損なうのは悪い癖だ。しかし、自分のせいで得た痛みに耐えながらノルマを成し遂げるのは気持ち良い。こういうのを獲得的ハンディキャッピングというそうな。人間の心理に悉く名前がついているのは好きだが少し怖い。名前がついた途端にそれはただの情報になってしまう気がするからだ。レース編みの緻密な模様と、コンピュータで織り出した模様はやっぱり違う。例え人間にそれが判別できなくなったとしても、寸分違わぬものだとしても。
心が脳の代謝の結果であろうと、私はその美しさを謳いたい。肉体に縛られること、思っているほど崇高ではないこと、それらさえ全て愛しい心だ。孤独、悲哀、憂鬱、怠惰、憤怒、負の面が「人間くささ」をつくるのだと信じる。均整のとれた黄金比の心も、潰れた粘土細工の心も美しいのだと、繰り返し声高に主張し続けたい。

紺碧

ブログは20時以降に書くのが良い。何故なら私はこの時間帯から深夜テンションになって、言葉が止めどなく溢れ出てくるから。それは則ち脳の箍が弛んでバカになってることでしかないんだけど、私の場合メリットの方が多いしデカい。
最近よく泣きそうになるけど泣かない。涙が出る直前の、鼻の奥がツンとする感覚は好きだけど、泣くと鼻水が出るから嫌い。こちとら慢性鼻炎なんだからやめて頂きたい。
美化された「泣く」という行為が好きなので泣きたいと思ってしまいそうになるけど、生物なんてそんな綺麗にできてないんだよね。防水性の高い機械が生理食塩水を流した方が余程マシ。
秋の夕の光線は金色すぎて怖い。もう冬だからこの文章そのものが六日の菖蒲だけども言う。秋の夕日の金色さに毎年毎年驚いてる。赤とか黄色に暖色って名付けたのは誰だか知らないけど、暖色が寒い季節にあんなに映えるのは不思議だ。補色みたい。秋晴れの昼の空とイチョウの葉は実際に補色でもあるし。(中学生のときの美術の教科書に補色の例として載っていた)金木犀の花を蜂蜜に漬けて紅茶に入れると美味しい、これは古い少女漫画で読んだ。完全な創作かもしれないけど、実は脳内お花畑な私にはそれぐらいの甘さがちょうど良い。舌で受け取る甘さは苦手だけど。
今日は久しぶりに紅茶を飲んだのだけど、私には紅茶に砂糖を入れて飲む人の気持ちが分からない。というのも、私は苦味が好きだからだ。百歩譲ってミルクティーは許せるが午後の紅茶ミルクティーお前は駄目だ(キリンビバレッジさん、ごめんなさい)熱い湯で煎れた茶に匹敵するほどうまい飲み物なんてジンジャエール以外にあるのか?偏見が過ぎてて笑っちゃうね。
深夜テンションに任せてカフェインを摂取し続けると目がチカチカしてくる。精神が冴えてるのに体は限界、なのに尚更ハイになるぐらい心身が乖離してく。ランナーズ・ハイと原理的には同じ、多分。
深夜テンションになるだけで泣きそうになる私はきっと泣き上戸。20歳になってから試す気はちっとも湧かないけども。酒焼けが怖いんじゃない、酒に酔うのが怖いのだ。我を忘れるのが怖いのだ。なので私は一生魔法使いになれない。
数学Aの課題(明日提出)をやりながらブログを書いていたら空元気も枯れてきたので、まず本日はこれぎり。

矢の如し

最近の時の流れ、いくらなんでも速すぎない?まだ9月ぐらいな気がしてる。「光陰矢の如し度」が赤マル急上昇中な今日この頃。
手袋がないと通学が辛い季節になってきた。嫌なこととか面倒なこともそれなりにやり過ごす術を徐々に身につけていってる。気絶してるみたいに生きるって処世術。それはそれで危ういけど。
実は至って真面目なわたし。だから牛歩戦術でも何とかなってるのかな。そうだったらちょっとだけだけど嬉しいよ。
小さい頃の記憶なんてほとんどないから、その頃のは「作られた記憶」なんじゃないかって妄想してみる。思えばわたしにきちんとした自我が芽生えたのなんてせいぜい小3ぐらいだ。明確な憧れとか好意に突き動かされるようになったのはそのときから。まあそれでもまだ他人よりは薄い自我だと思うけどね。
あと約30回寝たら来年?とても信じられないよ。最近はひたすらに眠い、7時間寝てる眠さじゃない。脳漿の上澄みの辺りを意識がふよふよ漂ってる感じがしてる。ここ3ヶ月ぐらいずっとそう。
私は絵をもっと上手く描けるようになりたいんだけど、放っといたら小説のプロットばかり考えてしまう。夢想家・私はずっと脳内で独り言を言ってるんだよ。私は寝てる間も頭を使いすぎてるのかもしれない、そうだったらどんなにいいか。きっと納得してみせるのに。生存権の行使をさぼってるだけとか、本当に笑えないから。
饒舌な気絶は恐ろしいよ。体験談。