ちっこいはなし

たのしいせいかつ

どす黒い

日々の徒然を日記に書くんじゃなくてブログに公開してる時点で自己顕示欲の塊だと思うので我ながら情けない。他人が他人に向けた批判にすら傷つくくせに、ちやほやされすぎるのも苦手。今まで十六年こうして育ってきた、脆くもふてぶてしい自意識の本質は結局のところ「自己満足」。自分のことだけ考えてたら他人に嫌われないでいられるか、なんて、そんなさもしい話はどこにも落ちてない訳で、やっぱり自己中はいつの世でも嫌われる。体裁だけは取り繕うとしてる今現在だけど。
並んで歩くのが苦手。比喩じゃなく。前を歩く人って例外なく邪魔だ。いらないストレスだから追い越す。校門から玄関までの長い道を、幾人も追い越しながら早歩きで通っていく。本当は蹴飛ばしたいぐらいなのに。
金木犀が香ってきたね。この匂いが昔から大好きだ。「秋」の全部を凝縮した匂いを放ってるよ。金木犀が咲く季節に生まれることができた私と生んでくれた両親には感謝しかない。ふと気づく。これも一種の自慢か?幸運な私の。
好意の反対は無関心とは耳から膿が出るほど聞いたけど、やっぱ有名になるってことは核心を突いてるってことだし、言い得て妙だと思う。好きも嫌いもベクトルの違いだし、無関心とはつまりゼロだ。自己中ってのはベクトルは関係なく、他人へ向ける感情が弱いってことなんじゃないのか、という持論。
まあこうやって自分の感情を分析するのも「自分を客観視できてる格好いい自分」の自慢に思えてきたので今日はこのへんで。

ギンガムチェック

得意科目は国語だけれど、しょっちゅう言葉が不自由だと感じる。言葉「は」不自由、それもそうだけど。言葉は定義するものだからグラデーションの部分を写し取るのは難しい、分かっちゃいるけれど、もっと細かいうぶ毛が震えるような機微を正確に伝えたい気分のときだって私にもある。
しかし今回の主語は「私」。あまりに私は無知だとつくづく痛感せざるを得ない。知りたいことが多すぎるのに無精すぎて辞書も引かない。それに、言いたい言葉の大抵は日常会話で使わないから(寡黙なせいもある)脳内のタンスの奥深くにしまい込んであるから出てこない、それに(前述のように)言いたいことが多すぎて引き出しがギチギチに詰まって開かなくなってる。空き容量増やさなきゃ。
私の詩はある一つの発想から次々と生まれる。調子が良いときはマジシャンが出すトランプみたいに湧き出てくる。一方スランプのときは涸れた泉。まず発想が出ない。無闇に奇をてらうと速攻ゴミ箱の肥やしになるだけだ。おとなしく膝抱えて待つしかない。まあ生活に満足してると詩なんて湧かないから喜ぶべきか、悲しむべきか。それが問題だ。

努々忘るること勿れ

小学生の高学年の頃は詩人になりたかった。今の私は作詞作曲をしたい。こうして書き出してみるとそれほど乖離していないし、今も昔も言葉が大好きだって何回目かの気付きを得る。
ただ、憧れる先が安定しない。ダダイストになるか、抒情詩人になるか、歌人も捨て難いし、作詞するにもストレートに書くか比喩を多用するか、ぶつ切りの単語を並べ立てるか。一つの分野の中でもストライクゾーンが広いが故の悩み。
きっかけは中原中也だった。無礼だった小三の私は「この人いい詩を書くね」、と上から目線で言い放った。この頃の怖い者知らずの私がどう転んで今の引っ込み思案になったのかよく分からない。それでも考えなしに放った言葉がすぐに恥ずかしくなってうなされることは変わっちゃいない。ともかく、そこからあれよあれよと私は中也の詩の虜になり、聖典のように学校へ持参した時期もあったものだ。熱しやすく冷めやすい私だが、ここまで熱量が持続するのだから「本物」だ。
詩作と作詞。字面は大して違わない。感情を文字に固定させる行為だから似ているっちゃ似ている。私は一人言が多いタイプで喋るみたいに思考する。考える内容を一度、脳内で文字起こしする過程がある。その工程で、誰かに見せないにも関わらず「この言葉はいい」「私が使うのは珍しいから小気味良いアクセントになる」「この言葉とこの言葉で韻を踏める」と余計な脳の部位を働かせている。常に頭をフル稼働させていないと壊死しそうだし、ストレッチ。
読点や体言止めの多用、共通項を持つ(と自分は思っている)単語の羅列、そんなのが好きだ。もっと言葉は自由でいい、作文風のですます調の軛から解き放たれ、もっと放埒に。
十代は柔らかい。上から押さえつけると横に伸びていく。今望むのはさらなるインプット。図書館が必要だ、その図書館にはさらなる蔵書が必要だ。近場の図書館は本が少ない。リズムも必要だ。最後に忘れちゃいけないポエジー。つまりは熱狂のただ中に身を置いていたい。それだけはひたすらに確かだ。

ボンベ

ご無沙汰してます全音下です。最近は本当に充実していて、あまりにも幸せすぎてこのブログのことなんかすっかり忘れてました。軽音楽部に入ったんです。早く活動したいものですね。
好きなバンドが増えてしまったけどお財布には幾分か余裕があるので安心して散財できるけど、そもそもCDを買うことを「散財」って呼んだらアーティストに失礼な気もする。なんか人として最低限の、誰か他人へのリスペクトが欠けてるみたいで。まあ既成の単語だしどうだっていいことだけど。
他人ってめちゃくちゃどうでもいいよね。だから用事もないのに友達の家なんか知らないし出身地とか心底興味ない。今日の天気について所見を交換するのもめんどくさい。そういうわけでこのブログのコメント欄も閉鎖してる。独り言じゃないと長文でブログなんてやってられない。
芸人さんたちが好き。笑わせるってことはやっぱすごく難しくて、それに「誰かを笑わせるための仕事」って利他じゃん。動機がどうあれ、例えやましかろうと格好いいと思うよ。私は能天気だから基本落ち込んでも一日寝たら忘れるけど、芸人さんたちを見てると元気をもらえる。
毎日が楽しすぎて人を嫌う余裕なんてない。去年の私に会えたら「そのまま真っ直ぐ進めばいいよ、多分その先に正解があるから」って言いたい。夢の輪郭はだんだんと確かにはっきりしてきてる。そんで一歩ずつ近づいてる。ギターも買ったんだ。まだゆっくりのコード弾きしかできないけど。私は果報者。望めば大抵のものは手に入って、おいしいご飯と七時間睡眠、あといい感じの仲間。絵に書いたような幸せがこんなところにあったんだなと思う。
詩を書くことは続けてる。能天気だけれども私はとっても短気だから、信号待ちの時間に怒りを発生させることぐらいお手のもの。伊達に今まで怒ってきてない、こちとらプロの怒り屋なんだからさ。ちっちゃいことで怒れるから詩のネタになる感情も捻出できるというわけだ。いつも小出しで、まとまった形に落ち着くことなんかめったにないけど。
やっぱり文章を総括するのが下手なのはそうそう簡単に変わりゃしない。でも言いたいことは頻繁にブログを更新してたときよりも沢山あるんだよ。肩の力を程よく抜いて、チルい感じの曲聞いたり聞かなかったり、激しい曲聞いたりして生きてくよ。またね。

※急に人が変わったみたいになってるけど洗脳されたりしてるわけじゃないです。あと急に丁寧語消失してごめんなさい。

ありきたり

雑言しか出て来ねえなあ。でも何かしらを脳から引き摺り出さなきゃ後頭部が痛くなる。私には共感を呼べるような希死念慮も、他人を唸らせる才能も、笑いのセンスすらないんだからどうしようもない生命だ。唯一の武器だった多少の生きづらさも失くしてしまった。
誰かの背中を言葉で刺したかった私はもういない。なんだか今は世界全てが輝いて見えるよ。どんな宗教?って思われるかもだけど、最終的には気の持ちよう。結局は受容体の問題だもん。
まあ、言い方を変えりゃただの中庸ポジティブ人間になった私。誰も困りゃしないのになんか悔しい。そう思うことも悔しい。特別な部分がなくなっただけでこんなに不安になるなんて弱い精神だ。かわいらしいと言い換えることもできなくはないんだが、やっぱりちょっと無理がある。
でも大丈夫。私はそんな感じでなんとなく生きてられる。今日はまだ名前も知らない同級生の女の子と10分近く話し続けられたんだよ。こんな夜には軽率に涙が出てくる。涙腺が日に日に馬鹿になってく。
明日は雨だよ。少し寒いかもしれないね。体育やだな。そんな程度の話をしていたい。会話すると疲れるからなるべく文章で。

布団叩き

もう考えることすら邪魔くさいけど、情報に支配された昨今じゃそういう奴から脱落していく。誰も彼も馬鹿に見えてくる。二日酔いみたいだ。停滞しきってる。息をするだけで疲れてくるよ。肩の力が抜けてくる。空気が淀んでるなあ。
ため息しか出て来ない。やるべきことを探せば探すほど退屈だ。本を読むのもブログを書くのも面倒くさい。現にここまで書くのに三日かかった。
私が世界の全てから切り離されているような感覚。(本当はまったくそんなことはないのだけれど)内省しかできないな。そのおかげか知らないけど歌詞の質は確実に上がってる。ただ慣れただけ?でもやっぱ梨の礫。
何事も行きすぎると苦しくなる。幸せすぎると多少不幸になりたくなる。愛されすぎると疎ましくなる。私の不平不満はだいたい全部わがままだけど。
私の理論なんか何一つ完璧じゃない。叩けば埃が出る。それでも何か言いたいことがあって、それは一方通行でも別に構わない。こうやって物事を自分なりに考えてる時間が大好きなんだ。それでも退屈なものは退屈だけどさ。

ハンドメイド

当たり前だけどみんな他人だ。それをわかっていない。あなたも私も。でも信じたいもんね。その気持ちはわかるよ。どこまでが共通でどこからが個別なのかの線引きは難しい。
もっと思ったことをナチュラルにカジュアルに書けたらいいのに、発露するのがネガティブな感情ばっかり。いつも怒ってる人だと思われるのは心外です。私だって一日の大半は笑って過ごしてるからね。あとこの段落はカタカナ語が多いのがなんかイマイチ。
楽しいことはあまり記憶に残らない。慣れって怖いよね。多すぎてキャパオーバーだ。だからネガティブ文章書きにならざるを得ない。つらみ。ひょっとしたら自分は癇癪持ちなのかもしれないと思い始めた。友達が少ないのもそのせいにしてみる。すぐに諦める。
漫画は偉大。10分消費して怒りを鎮めることができる。私の地鎮祭。脳が喜んでるのを感じる。楽しいことがいっぱいある。人生は最高だってことをこれからも言い続けたい。
私の記事はいつも同工異曲で嫌だ。楽しいこと、悲しいこと、交互に独立した一つ一つの記事にできたらいいのに。
忘れてしまったものはその程度のものだったんだと思うことにしている。興味がなくなったから忘れた。だから頭の中がスカスカだ。もっと楽しいことを隙間にいっぱい詰めて栓を塞いでしまえば充実するんだろうか、この人生。