ちっこいはなし

たのしいせいかつ

ギンガムチェック

得意科目は国語だけれど、しょっちゅう言葉が不自由だと感じる。言葉「は」不自由、それもそうだけど。言葉は定義するものだからグラデーションの部分を写し取るのは難しい、分かっちゃいるけれど、もっと細かいうぶ毛が震えるような機微を正確に伝えたい気分のときだって私にもある。
しかし今回の主語は「私」。あまりに私は無知だとつくづく痛感せざるを得ない。知りたいことが多すぎるのに無精すぎて辞書も引かない。それに、言いたい言葉の大抵は日常会話で使わないから(寡黙なせいもある)脳内のタンスの奥深くにしまい込んであるから出てこない、それに(前述のように)言いたいことが多すぎて引き出しがギチギチに詰まって開かなくなってる。空き容量増やさなきゃ。
私の詩はある一つの発想から次々と生まれる。調子が良いときはマジシャンが出すトランプみたいに湧き出てくる。一方スランプのときは涸れた泉。まず発想が出ない。無闇に奇をてらうと速攻ゴミ箱の肥やしになるだけだ。おとなしく膝抱えて待つしかない。まあ生活に満足してると詩なんて湧かないから喜ぶべきか、悲しむべきか。それが問題だ。