ちっこいはなし

たのしいせいかつ

ポジティブに無意味

 もしかして、これを読んでいるあなたは生きる意味を求めてしまう系の人間なのだろうか。だとしたら、その意味を果たしてしまったときには死んでしまったりするのだろうか。素朴な疑問。わたしはそもそも、生きる意味など理屈屋の後付け論理だと思っている。人間は勝手に生まれて勝手に生殖したりしなかったり、仕事したりしなかったりして、そんでもって勝手に死ぬだけのものだと思うよ。わたしはね。

 無意味は苦しいのだろうか。生きることが目的じゃいけないのだろうか。一秒でも長く何かを感じていたいのは間違いじゃないよね?

 

 (かといって傍若無人に振る舞う奴に割く時間はないのでお帰りください)

 

 わたしはわたしを生きることが好きだ。疎外されたりするけど生きづらくはないし、それなりに知識と知性があると自負している。好きな人から(形は違えど)愛されて、趣味は山ほどある。続けるためのお金もある。わたしはわたしが好きだ。死ぬメリットよりデメリットが大きすぎるから生きる。それだけ。

ベストヒット優越へ

 楽しいことも辛いことも全て一瞬で終わってしまって恐ろしい。ただし得失点差はプラスだ。恵まれすぎていることさえ恐ろしくなったら今度はどうしようか。

 私のアパシーはそのための適応機制なのかもしれない。すばらしいものを「自分を楽しませるもの」としてのみ認識することで、あまり心を動かされないようにすること。透徹した目を持つこと。けれども上手くいかなかった。今じゃ私は、絶対的な他者に圧倒されたいと思っている。

 だから人が死ぬ詩を書く。死は誰にとっても絶対的だけど、私には死ぬ気などさらさらないから、文字で分身を作って殺し続ける。自分が絶対的になって自分を圧倒する。

 刹那主義になって泣きたい。いつも期待ばかり美しくて終わりが恐ろしいのなら、始まりと共に終わってしまえばいい。そういう自分を増幅しては文字の世界で潰して螺旋階段を上ってく。恐れることはない。私は今日も唯一の私。それ以上でも以下でもない。とてつもない振動数の波の中をやり過ごして。

とめどなく嘔吐

 最近は永遠に叶わない歴史のifばかりを夢見続けている。また、美しい人はできるだけ美しいまま死んでほしいとも思う。時間軸の外れとしての現在からそれを幻視している。副作用は現実からの解離だ。

 わたしは獲得的ハンディキャッピングが好きなタイプなので、今日も輝かしい彼らの過去を思い返しては自分から腑抜けになりに行く。不可逆な時間が恨めしい。今の現実はあんなんだし、見てられないよな。

 認めたくないけど彼のことも大好きだから消えてほしい。覗きに行くのがもはや自傷。ルミノール反応みたいに痕跡を辿ってるだけ。

 

 その人とあの人が過ごした10年間に生まれていたかったかもしれない。

無謀な企て

 脳裏にあの子の姿を描きながら布団の中でする身悶え。ラブソングとか恋愛小説みたいに「夜も眠れない」なんて、そんなのはないけど、ふとしたとき(例えば窓の外を眺めているとき、授業に興味が持てないとき、何も考えていないとき)に真っ先に浮かぶのは決まって彼女の顔で参ってしまう。
 でも、あれって本当にあの子そのものなのか。都合のいい妄想じゃないのか。だってあの子には他に好きな人がいるし、恋愛には臆病なタイプだし、弱虫を自認する私より傷つきやすいから。私に振り向いてくれることがないのをいいことに、好き勝手に妄想を塗りたくっていないか。恋心を糧に、頭でっかちな感情が膨れ上がって私ごと宙に浮かんでいる。
 それでもいいのかもしれない。私はあの子のことを遠くから見ているだけで幸せ。喜びに胸を弾ませて、息を切らして跳びはねてる彼女がかわいい。大好き。でもやっぱりちょっとだけ、あの子の幸せに私が与することができたら、それは無上の喜びだ。ほら、またあの子の声で耳の中がいっぱいだ。
 宙に絵の具で生きた恋人を描くような、マグリットのあの絵画みたいに、私があの子を再構成するのは罪深い。叶うなら、本当のあの子を最前列で食い入るように見つめたいんだ。身の程知らずでも。

死に至らない病

 何もかもが漠然と不安で、でもいつもそれを忘れている。だから揺り戻しがすごい。その拍子に人は自分で死んでしまったりするのだけれど、私は実は当代随一の楽天家なのでそんなことにはならない。
 でもまあ恐ろしい。何故なら私は世間から見たら色々とマイノリティだと思うから。太平洋にヨットで出て行く人はすごい。海図があるとはいえ、だだっ広い塩っ辛い、遮るものが何一つないところへ行くんだもんな。世間の荒波とはよく言ったものだ。話の通じない人が怖い。怒られることが怖い。目を見ることが怖い。表通りが怖い。
 飼い慣らされた犬みたいに、自力で餌をとれない私はどこへ行けるのか。こうなったら新しく翼を生やすしかないな。背中を割る痛みとか、その後の肺の痛みに比べたらきっと大したことはないだろう。不安は足元にまとわりついてじんわりと冷たい。
 人の下にも上にもいたくない。それならひとりでいるしかないよ。目には目を、病には病を。不安を孤独で包んで、オブラートみたいにして呑み込んでしまおう。でも本当の本当は、同じようにひとりで寒い逆風に晒されながら歩いている人と握手したいんだ。

面会室

 今までの恋が恋じゃなくてただ安全圏から妄想を押しつけてただけと分かって、その後初めてする恋(らしきもの)に臆病にならない訳がない。その人のことが一番大切で、会いたいし何なら一緒に住みたいし、それでもこんな本性は知らないでほしい。
 親のことすら何も分かっていない。心から愛していて、喜ばせてあげたいと思うのだけれど、何をすれば喜ぶのか全く見当もつかなくて困り果ててしまう。それが苦しいから諦めてしまう、それは怠慢だろうか。
 だから彼女に触れるのが怖い。話しかけることはできているけど、たぶん彼女は何も気づいていない。それならそのままでいいかもな、と思う。彼女は私にとっての何?観葉植物でも機械人形でもないけど、ミューズ、それも違う。
 ピグマリオンにはなりたくない。彼女はちゃんと泣いて笑って人間をしている、人生とがっぷり四つの組み合いをやっている、同い年の少女だ。なあなあでいなしてきた私から見たら眩しくて仕方ない。外側だけ借りてロボットにしてしまうのは冒涜で強姦だ。アウフヘーベンのような関係でありたい。我儘かな。
 それでも守ってあげたい。これは我儘だ。断定する。庇護下に置くというのは彼女を格下に見てるし、それって私が憧れる彼女の光を全部塗り潰しているから。人格全無視でおくるみに包んでしまっている。
 出会わない方が幸せだったのかもしれない。それでも最早、私が生きる目的の一つにまでなってしまった。恨めしくさえあるけど、また取り繕って何気なく彼女を見ている。会話する。そして恋をしている。

溶融は自堕落

 何をするにも面倒くさくてほとほと困り果てることさえ面倒だ。それでも文章は面倒くさがらずに書けてしまうので呆れればいいのか?(そもそも独り言が文章形式なのでそれを出力すれば文章はいくらでも書ける)
 やりたかったことまでもが面倒で、やりたくなかったことなんかそれはもう死ぬほど面倒だ。私には学校生活というものはどうにも耐え難い。毎日すごく帰りたい。外出ってのは目的遂行のための手段でしかないから、目的が終わったらワープでもしたい。
 でも電車には乗っていたい。電車に揺られながら車窓の外を眺める。その外にある、私と無関係な人の生活を思う。そのときに夕日なんか射し込もうものならもう、軽率に泣いてしまいたくなる。絶対に泣かないけど。
 泣きたくないと思ってるときが一番楽しい人生だ。その次が文章を書いてるとき。私の好きなことは全部大して役には立たなくて(文章に関しては褒めてくれる人が数人いる、ありがたいことだがそれがお金になる訳じゃないし、内容もとても誇れたものじゃない)、無為な時間を過ごしていることへの焦りは麻薬みたいだ。モラトリアムはもう残り少ない。なのにできるだけ浪費したい。
 笑われ者になりたい。晒し者ではなくて。注目されたいから奇嬌な振る舞いをしてしまう。誰も私のことを知らないところでちやほやされたいのは疲れている証拠だろうか。私は愛されている。本当に、時々うんざりするほど愛されている。でもまだ足りない気がするのはどうして?危ない自意識だ。
 大人になりたくないんじゃなくて、大人になると同時に負う必要がある責任から逃れたいだけだろ。それもきっと私だけじゃないだろ?