ちっこいはなし

たのしいせいかつ

努々忘るること勿れ

小学生の高学年の頃は詩人になりたかった。今の私は作詞作曲をしたい。こうして書き出してみるとそれほど乖離していないし、今も昔も言葉が大好きだって何回目かの気付きを得る。
ただ、憧れる先が安定しない。ダダイストになるか、抒情詩人になるか、歌人も捨て難いし、作詞するにもストレートに書くか比喩を多用するか、ぶつ切りの単語を並べ立てるか。一つの分野の中でもストライクゾーンが広いが故の悩み。
きっかけは中原中也だった。無礼だった小三の私は「この人いい詩を書くね」、と上から目線で言い放った。この頃の怖い者知らずの私がどう転んで今の引っ込み思案になったのかよく分からない。それでも考えなしに放った言葉がすぐに恥ずかしくなってうなされることは変わっちゃいない。ともかく、そこからあれよあれよと私は中也の詩の虜になり、聖典のように学校へ持参した時期もあったものだ。熱しやすく冷めやすい私だが、ここまで熱量が持続するのだから「本物」だ。
詩作と作詞。字面は大して違わない。感情を文字に固定させる行為だから似ているっちゃ似ている。私は一人言が多いタイプで喋るみたいに思考する。考える内容を一度、脳内で文字起こしする過程がある。その工程で、誰かに見せないにも関わらず「この言葉はいい」「私が使うのは珍しいから小気味良いアクセントになる」「この言葉とこの言葉で韻を踏める」と余計な脳の部位を働かせている。常に頭をフル稼働させていないと壊死しそうだし、ストレッチ。
読点や体言止めの多用、共通項を持つ(と自分は思っている)単語の羅列、そんなのが好きだ。もっと言葉は自由でいい、作文風のですます調の軛から解き放たれ、もっと放埒に。
十代は柔らかい。上から押さえつけると横に伸びていく。今望むのはさらなるインプット。図書館が必要だ、その図書館にはさらなる蔵書が必要だ。近場の図書館は本が少ない。リズムも必要だ。最後に忘れちゃいけないポエジー。つまりは熱狂のただ中に身を置いていたい。それだけはひたすらに確かだ。