ちっこいはなし

たのしいせいかつ

反透明/魚眼レンズ

友達がいないと気楽でいいけど、何かと不便なのでプラマイゼロだ。高校に入ってから新しい友達は作れていない。
ところで皆さん、義務教育時代に友達は作れましたか?こんな私でも友達の一人や二人ぐらいはいます。そんでここから本題に入るんだが、友達の家って知ってますか?
私は知らない。友達の住所、家族構成、誕生日、何も。だって私は、私用に用意されたその子の人格以外に興味がないからだ。多重人格とまではいかなくとも、誰だって多少は付き合う人によって人格が切り替わるはずだ。当然私も例外ではなく、話す相手によって声の高さまで変わってしまう。
話が逸れたが、つまり私は他人への興味が希薄だ。クラスメイトの顔なんか覚えられないし、俳優やアイドルの顔など尚更分からないし見分けもつかない。芸人は興味があるから分かる。まるで自分に関わらないものは存在しないかのように、意識に入らないのだ。私の景色は私を中心として、極度に歪曲するブラックホールだ。
この性質で苦労したりはする。何しろ軽音楽部で同じバンドに所属する女子メンバーの顔すらろくに覚えていないので、話しかけられても空返事するしかない。一人だけ、髪の裾を染めている子だけ判別できるが、染めるのを止めたらその子も怪しい。(男子より女子の方がなぜか判別が難しい。バンドの男子メンバーは遠目からでも分かる。不思議なものだ。)これは比喩だが、私から見た女子には顔がない。およそ個性といったものが見当たらないのだ。私が描いた「女子」のステレオタイプから少しも逸脱しない。だから興味など抱けない。「女子」のイデアにしか好奇心を向けられない。
近くて見えぬは睫とはよく言ったもので、私は私を取り巻く外界にもさほど興味はない。自分で言うのも気恥ずかしいが勇気を出して告白すると、私は少々思索に奥深くまで潜ってしまうきらいがあるのだ。自分を裏返すみたいに中へ中へ入ろうとするから外が見えない。私には目が二つしかないから。だから哲学者の気分だ。けれど人付き合いや世渡りが上手くない内は、私はまだまだ似非哲学者なのだろう。
哲学モードの私、謂わば「私と付き合う人格の私」は生産性のない会話というものが大嫌いだから、文章によって自己を陶冶するしかない。私の独り言が文章チックなのもきっとそのせいだ。私のブログは脳内の独り言をアウトプットしているのだが、独り言は全部断片なので繋ぎ合わせると整合性がない。話の飛躍もこの性質に依るものだ。端切れ入れをひっくり返しすぎてとっ散らかってきたので今日はここまで。