ちっこいはなし

たのしいせいかつ

人間愛好家

生きていることが幸せだ。そう表明するのが気恥ずかしかったし、つい最近までは心からそう思えなかった。でも今なら臆面もなく言えるのだ。
私が媒体はどうあれ表現をやるときには、いつだって通奏低音として人間賛歌を忍ばせたいと思っている。誰かに届けるためではなく、自分が自分を誇れるように、まっすぐ立っていたいと願う。卑屈でも傲慢でもなく、ただあるがままの自己を等身大に愛していたい。
失敗ばかりの毎日だ。手をこまねいている内に恥はどんどん増えてゆくし、対策を講じることなく痛みを忘れてゆく。現在の快楽のために未来の幸福を損なうのは悪い癖だ。しかし、自分のせいで得た痛みに耐えながらノルマを成し遂げるのは気持ち良い。こういうのを獲得的ハンディキャッピングというそうな。人間の心理に悉く名前がついているのは好きだが少し怖い。名前がついた途端にそれはただの情報になってしまう気がするからだ。レース編みの緻密な模様と、コンピュータで織り出した模様はやっぱり違う。例え人間にそれが判別できなくなったとしても、寸分違わぬものだとしても。
心が脳の代謝の結果であろうと、私はその美しさを謳いたい。肉体に縛られること、思っているほど崇高ではないこと、それらさえ全て愛しい心だ。孤独、悲哀、憂鬱、怠惰、憤怒、負の面が「人間くささ」をつくるのだと信じる。均整のとれた黄金比の心も、潰れた粘土細工の心も美しいのだと、繰り返し声高に主張し続けたい。